子温|2018.11.26



人間の心が疎かになった――。


テレビのニュースや、人と人とのやり取り、変化の著しい経済活動のさなか等においても、そう思わせる局面に出くわすことがあるでしょう。


もしかしたら人の意識と同様に、年々住処や種の存在自体を奪われつつある自然界の生きもの達でさえ、そのことを察知しているのかもしれません。


人間のそれを、筆者は「心の淀み」だと捉えています。
 

要は、日々感動しないために、心が疎かになってしまうのです。
 

コップに入れた水はやがて淀んで腐りますが、川の水はその流れによって、ある程度の新鮮さを保つことができます。
また東洋医学では、人間の身体のうち「気・血・水」のいずれかの流れが滞ると病気になると考えられています。

それは心にも言えることであり、感動・感情といった起爆剤によって、いつでも順々と巡っていなくてはなりません。
また、心が循環していくためには、他からの刺激を受けることが最も手っ取り早い方法なのです。
 

心を揺り動かすには、自分以外の生命力やエネルギーを得ることがやはり理に適っており、そのための毎日の食行動であるとも考えられます。
 

日々の食事によって、貴重な生命と心を頂いているのですね。
 

筆者はかつて、東京都目黒区自由が丘にある小さなマーケット(http://ak-friend.com/)で、農薬も肥料も使わずに作られた野菜を買っていました。
 

大切に、しかしダイナミックに育てられた野菜達は、どれも個性的な様相で、それぞれの色彩が持つ美しさが大変印象的でした。
 

慣行栽培の野菜よりも淡い色合いでありながら、オレンジはオレンジでも、緑は緑でもどこか可憐なタッチと風情なのです。
まず、そこに驚きました。

 

人参などは輪切りにした時に出てくる模様が特徴的で、まるで花びらを細筆で書いたような不思議さがありました。
自然界の描く画は、綿密な規則性と繊細さを併せ持っていて、まさに神秘が起こす所業であると言えましょう。
 

そしてまた面白いことに、確固たる美しさの中にも、アレ・・・・?と頭を傾げてしまうような「ハズシ」が幾つかあるのです。
不揃いな何かが一つ、二つ――。
 

その「ハズシ」があることで、美しさが一層引き立つという計算の元に作られているかのようです。
 

それらの野菜をサッと茹でて頂いた時は、あまりの美味しさに飛び上がってしまったことが思い出されます。
まさに大地がくれた贈り物らしき美味で、野菜の温もりと慈愛のような感情が伝わってくるような気がして、とにかく感動しきりでした。
 

野菜をじっくりと頂きながら、きっと野菜達は綺麗で真っ直ぐな心を持っていることだろうなと思わされる、言葉にし難い体験でした。

 

あぁやっぱり。自然界は、こうでなくっちゃ!

 

↑こちらは、「自然栽培」によって作られた玄米。生命力が強く、画像では判然としないかもしれませんが、一つ一つのお米がきちんと発芽しています。
 

生物学者でもあり、人類史上初めて環境問題に一石を投じたことで著名な、かのレイチェルカーソンはこんな言葉を残しています。
 

・「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。 

・地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることは決してないでしょう。
 

自然から離れ、自然的な流れに逆らうように発展してきた社会では、心の起爆剤としてのエンターテイメントを強く求めてきました。
 

心の淀みを解消するために、刺激の強い娯楽に耽り、それに一旦慣れてしまえば別なる刺激をまた必要とする、一種の麻薬中毒的な側面を持ってしまったのです。
 

暴力的なシーンがいずこにも増えたことは、それだけ昨今の心の動きが鈍っていることを感知した作り手側の意図によるものでしょう。ただそれらの感動は、生物本来の欲求を満たすものであるかと言うと、また話は違ってきそうです。
 

自然と離れてしまった人間社会ならでの閉塞感は、基本的には人工的な手法で埋めざるを得ないでしょう。
なるべく、人の心が置いてきぼりになってしまわないように。 

しかし筆者は、それとは別に、今後の新しいライフスタイルとして、例えば作物を少しずつ自給するパターンや、特定の季節限定の農業などに携わる「自然的思想を持った人達」が増えていくのではないかと考えています。
 

それはきっと、自身の生活に沿った、既存の枠にはまらない型式です。
 

兼業農家でもない、完全なる自給自足型でもない、もっと気軽に、庭先や貸し農園を活用した手法などです。
 

植物の生命にじっくり向き合い、よく観察し、手間をかけ育て、出来た収穫物をその場で頂く感動は、言葉には言い尽くせないと思うのです。
それはおそらく、夜空に輝く満天の星を見た時の、あの生物的な欲求や感情が満たされたような心の動きと似ているはずです。
 

この先、心の栄養を欲しての、何らかの形での小さな農を手にする人は、きっともっと、増えていくでしょう。

















    子温|2018.11.26

     

    さっそくですが、非農家、それも若年の新規就農希望者が描く農業の未来像に、農薬や肥料を使わない「究極の自然農法」が理想としてあることをご存知でしょうか?
     

    筆者もそんな気概に触発された一人であり、今でも数々の農業書籍を目で追う中、とりわけ「有機栽培」や「自然農法」といった文面には頭上のアンテナが反応してしまいます。
     

    今やなぜ、自然農こそが理想像、あるいは夢物語のように語られているのか? 

     

    いくつか言えることは、 

    ・大局的に見て、現行の農業に行き詰まりを感じていながらも、直ちに自然農に移行していくのが至難の業であること。 

    ・食の未来を担う若年層にとっては、農法に選択肢を求め、そこに新たな自然観と経済的な付加価値を見出していること。 

    ・日本の農耕を見直す、時局の節目に差し掛かっていること。

     

    そういった農への不本意さが閾値を超えたことで、自ずと出てきた根源的な願望ではないか、とも考えられます。
     

    終戦から半世紀以上が過ぎ、モノや情報が供給過多となった今を生きる若者には、折り合い点というものが最も必要とされているのかもしれません。

    そこには慣行農業だけではない、多様な選択肢が求められています。


    筆者は、野菜中心の少食実践家ですが、そうなった理由としては、自分の身体にとってより自然的な、あるべき方向を選んだためだと言えます。
     

    そんな私には、長年忘れられず心に留めている言葉があります。

     

    それは、

    生命は貴重であるが、愛しすぎると腐る。もっと粗末に扱うべきだ」というもの。
     

    大量生産または飽食の時代を生きる自分にとっては、与えられることが当然であり、いつどこで本来の自力が生み出されるのか、どう発揮すればいいのか、分からないでいました。
     

    そんな現代に生きているからこそ、過保護であることの罪を自覚することができ、また生命を最大限活かすことの重要性を想像できるのかもしれません。

    昨今の気象面も踏まえると、農業をとりまく環境はこれまで以上に厳しく、課題が山積みとなっている事実は否めません。

    筆者は自然環境の浄化を担う農業から今後も目を逸らさず、自分なりの方法で農に関わっていく道を模索していきたいと考えております。

    将来的な食糧事情に対応していくためにも、慣行農業や自然農に加え、多岐にわたる農的ライフスタイルを個人々々が提唱していく世の中であってほしい、と切に願っています。